@article{oai:meiji.repo.nii.ac.jp:00007527, author = {大島, 田人 and 八角, 真}, journal = {明治大学教養論集}, month = {Mar}, note = {Article, 筆者担当の本年度の鷗外の史跡調査の対象は、前年度にひき続き、都内の霊園(青山・雑司ケ谷・染井・谷中〈補遺〉)や各寺院に眠る鷗外ゆかりの人々の塋域・軍衙(陸軍省・師団司令部・衛戍病院・陸軍大学校・陸軍軍医学校・陸軍士官学校等)の跡、帝室博物舘・宮内省図書寮・教育行政機国・植物園や動物園、公私に亘って鷗外が姿を見せた、或は作品の舞台になったホテル・レストラン・料亭・妓楼等々に就いて関連する参考資料の蒐集や現地踏査を実施しているうちに、伯林留学中、短期間ではあったが鷗外が最初に住んだ部屋で、一九七〇年の春以来それを記念するプレートが窓間の外壁にとりつけられている東伯林は西北区マリイ街32番地の家屋が、フンボルト大学の日本学研究所に当てられることを前提に、日本DDR文化協会、鷗外記念会の協力を得て、鷗外史跡として整備されたので、十月十二日(金)午後三時からフンボルト大学評議会室で開催された鷗外顕彰の式典に参列した後、この挙を記念して、二週間の日程で組まれた鷗外史跡歴訪のツアーに副団長として行を共にしたこともあり、今年度内に当初予定した目標を到底消化し切れなくなったので、さしあたって、今回、東伯林の西北区ルイーゼ街の微生物学研究所内に設けられているローベルト・コッホの記念室を見学する機会を得たことに関連して、都内は、北里大学白金キャンパス内の前庭に現存する二基の記念碑(コッホ手植の月桂樹と杉との脇に建つ)と鎌倉は稲村ケ崎の山上(地盤の脆弱な霊仙山上の旧位置から移転)に建つコッホの来日記念碑をめぐって、コッホの来日(明治四一・六・一二-同八・二四)と建碑の経緯についての調査結果を殆ど資料紹介のかたちではあるが、レポートすることにした。}, pages = {231--361}, title = {森 鷗外-人と文学のふるさと-(十)}, volume = {179}, year = {1985} }