@article{oai:meiji.repo.nii.ac.jp:00002525, author = {藤井, 秀登}, issue = {4}, journal = {明大商學論叢}, month = {Mar}, note = {Article, 1910(明治43)年8月の時点で,日本からシベリア経由でヨーロッパに行く方法として,船舶と鉄道を乗り継ぐ,3つのルートがあった。1つは日本国有鉄道で敦賀に行き,そこからウラジオストクへ航路で渡り,ウラジオストクから東清鉄道・シベリア鉄道に連絡するルート,もう1つは同様に下関へ行き,航路で下関から釜山へ移動し,そこから朝鮮鉄道・南満州鉄道・東清鉄道・シベリア鉄道に乗り継ぐルート,残る1つは鉄道・船舶で大連に渡り,大連から南満州鉄道・東清鉄道・シベリア鉄道を経由していくルートであった。この3つのルートは,全行程を船舶で移動する方法と比べて,日数と運賃がその約半額である点に優位性があった。本稿では,3つのルートのうち,敦賀・ウラジオストク・東清鉄道・シベリア鉄道のルートに限定したうえで,まずは敦賀がなぜ欧州とアジアを結ぶ交通の中継地点であったのかを検討していく。}, pages = {31--52}, title = {シベリア経由旅客国際運送の意義とジャパン・ツーリスト・ビューローの設立-欧亜国際連絡列車の視点から-}, volume = {95}, year = {2013} }